第参拾弐話『 泪(U) 』
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シンジは小鳥のさえずりに目を覚ました。外は明るくなってきている。
気が付くと、シンジの手はアスカと指を組んでいた。
シンジが眠っているアスカを見ると、泣き腫らした跡がわかった。
『お母さんの夢でも見たのかな?』とシンジは思ってアスカを見ていたが、小さくアスカがドイツ語で何かささやいた。その中に『シンジ』と名前を呼ばれたのだが、意味がわからなかった。
シンジはそのまま手を握ってアスカを見ていた。
朝食を済ませても、アスカは何か元気が無かった。
シンジが朝からそれに気付いていて、何か聞こうか聞くまいか考えているのがアスカにもわかっていた。
思い回す夢の事。それは自分の中の不安だとわかっている。
綾波の言葉は、もう一人の自分の言葉だ。考えたく無かった本心。
二人はいつもの様に、朝の海岸に来ていた。腐ってゆくエヴァ量産機に魚が集っているのがわかる。やはり人はいない。
「ねぇ?シンジ…」
アスカが水平線を見ながら声をかけた。「誰か還ってくると思う?」
「わからないけど、…でも、この間の飛行機はきっと誰か還って来た証拠だと思うよ。必ず誰かいるよ」シンジは答える。
「もし…、誰も還らなかったとしたら…。どうするの?」深刻な表情でアスカは聞く。それはシンジにもわからない。
シンジが「きっとそれは無いよ」と答えようとした時、アスカが言った。
「私は必要なの…?」
シンジは突然のアスカの言葉に驚きを隠せなかった。
そして、それが今朝からアスカの気持ちを沈ませている原因だと察した。
「なんでそんな事聞くの?」そう聞いて、それはこの間までの自分の自分の姿と重なる事に気付く。アスカはうつむいて答えない。
シンジは言葉を探す。ありきたりの言葉は傷を広げるだけだと知っている。
「誰かが戻ったって、戻らなくたってアスカが必要だ。ボクには…」
答えて、シンジはアスカの横顔を見据える。どこか哀しげなアスカの表情は、下ろされたままの風になびく髪が、なおさら美しく見せていた。
「あたし…。加持さんの事、好きだった…。」アスカの告白は今に至れば、シンジには苦痛でしかない。知っているだけに言葉に詰まるシンジ。
「…嫌じゃないの?私の事…?」
アスカにとって、加持は初恋の人であり、シンジはそんなアスカを見てきた。事実は変えられない。それが過去なら揺らぐ事はない。
「そんな女でいいの…?」アスカが自身なさげに問い掛ける。
「加持さんの事…。それは知ってる。でも、そんな事気にしてもらわなきゃならない必要なんて無いよ。過ぎた事だとも思って無い。消えない思いは消せないんだ。…少しくやしいけどね」
シンジは、アスカが加持に寄せていた想いが、『初恋』なのだと気付いていた。率直に妬けるのは確かだ。しかし、今のシンジにとって、それはアスカとの関係のほんの一部に過ぎない。
「でも、アスカがボクを必要としてくれたから…、アスカが許してくれたから、ボクはここにいて、アスカがここにいる。…それじゃダメかな?」
シンジは小さくほほ笑みを浮かべて言った。