第弐拾参.八話『 優しき水辺の傍ら 』
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アスカは歩きながら、水溜まりの奥へ視線を向ける。
それは暗闇にどこまでも続いている様に見え、対岸が見えない。
何故か少し見づらい。涙を流しているからだが、それを理解はしなかった。
『心を開かなければエヴァは動かないわ』「うるさい…」歩きながらボソリと囁く。
『アスカ!頼んだわよ!』「うるさい」瓦礫をまたぐ。
『ブザマね』「うるさいっ!」歩く。
『初号機の凍結を現時刻を以て破棄』「うるさいっ!」ただ下を向いて歩く。
『私は人形じゃない…』「黙れっ…えっ」嗚咽が洩れる。
『…ゴメン』「うっ…ふくぅ」嫌な残像。
『私と死んでちょうだい…』「…ぅう」吐き気がする。
アスカは何故こんな気持ちなのかわからない。とても嫌な気分。
頭の中が、嫌な気持ちで満たされていて、何かを求めているのに、それが何を求めているのかはわからない。
「気持ち悪い…」すさんだ瞳で、どこを見るでも無く呟く。
だから、『道を探さなければならない』との衝動でアスカは歩いた。
しかし、どれだけ歩いても自分の知る景色が見えてこない。言い知れぬ不安。
何もかもが『無い』事だけが確かだった。
「ママ…」頭が痛い。
込み上げる吐き気に耐えられず、アスカはその場に身を屈める。
ひどく苦しい。泡立った液体だけ吐き出される。
アスカは拳で口元を拭う。
その唇の感触に、何かの感情を感じたが、それが何だったのかわからない。
「死ぬ゙のはイヤ…。ママ…」
呻くような声を出すと、アスカは再び歩きだした。
アスカは疲労を感じていた。意識がとても重い。それは睡魔に似ていたが、それとは異なるなる物だ。意識はすでに混濁している。
アスカは走るつもりだが、フラフラと歩く。足元はおぼつかない。
『早く学校に行かなきゃならないのに…』
どれだけ時間が経ったのかわからない。空の色が、黒から濃紺へと変化
している。アスカは夜明が近い事に、周囲の変化として気付く。
アスカの行く先には、大きな水溜まりが弧を描いて続いていて先が見えない。
東の空が白んできた。何かがおかしいと、アスカは感じる。道が無い。
太陽は、水溜まりの遥か奥から昇る兆候を見せている。
山の形が現われてくる。
それは、見覚えのある形。記憶の中にある情景。
アスカは淀んだ眼差しで、それを見つめる。この景色の調和が理解出来ない。
山々は、白光を背負いその全容を晒す。アスカは見入っていた。
疲れ切った眼差しは、後悔と悲哀の色を浮かべ、感情を失っている。
冷たい汗が、頬を伝う。アスカは予感した。見てはならない最後の現実を。
世界は明るさを取り戻そうとしていた。遥か彼方まで、水面の揺らめきが続いている。それはとても遠くまで続いている。
「あぁ…」小さく声を洩らし、指先を震わせる。
静かに、涙が頬を流れた。
アスカは朝焼けの空を凝視しながら、身体を震わせる。何かがわかった。
まるで哀願する様に、何度か呻いた。
しかし今、全てが晒された。もう、何も無いのだと。
「ぅっあ゙あぁぁぁあぁぁ―――っ!!」両手を小さく広げ叫んだ。
それは絶望の悲鳴。
同時にアスカの心の中に、何かが落ちてきた。それは深く。それは重く。
空を仰ぎ、見開かれた瞳が心から引き離され、全ては終わった。
あとには、血の通った肉の塊である入れ物だけが残った。
姿を現わした太陽の日差しの中で…。